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7つのセクション
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幼い頃患った病からほぼ解放された後、本格的に写真を撮り始めたのが大学生になってからのことだった。暗闇の中でやっと見つけた希望のひかり、そのひかりに導かれる様に出会う人々にカメラを向けた。少年、少女、学生運動、日本に返還前の沖縄、街で見かけるおばあちゃん、そのすべてが僕にとって、生きる尊さ、強さを発散し、この上なく美しく輝いて見えた。

ある日、公園でバレーボールをしていた少女にカメラを向けた。次の瞬間、ボールが僕にぶつかりそうになった。
「ぶつかる!よけて!」彼女の瞳の奥には、僕に向けられた、精一杯の優しさ、慈しみが溢れていた。
「これ以上美しい瞳はあるのだろうか…。」
僕は写真家である限り、この瞳の奥の優しさを撮り続けようと心に誓った瞬間だった。

その時以来、40年という時間が経った。我々人間は、かつて持っていた、人を大切に思う心、人を信じる心を忘れてしまった。
いつか、思い出せばいい、そして僕はあの瞳を探して今もシャッターを切っている。
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日本で、箸にも棒にもかからなかった僕が日本を捨て、23才の時にロンドンに旅立った。人生を一からやり直そうと思ったからだ。
半年のつもりの旅行が、およそ10年間、一度も日本に戻ってこなかった。

ロンドンで全く新しい人生が始まった。劇団に入り役者をして100回の舞台に立った。パンクロックの嵐にもまれ、彼等の本音に触れた。沢山の人々が僕のカメラの前を通り過ぎた。ある日、地下鉄で会ったパンクバンド「ザ・クラッシュ」のジョー・ストラマーが僕に言った。
「撮りたいものをすべて撮れ。それがパンクなんだ…。」

シド・ビシャスの元カノやデビュー前のボーイ・ジョージと一緒に暮らしたこともあった。彼等は本物の人生の断片を僕に見せてくれた。思えば、一流の人間達に囲まれて過ごしたロンドンの10年間だった。僕はもはや、かつての病弱な人間ではなく、人並みの人間になって、日本に戻ってきた。
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1986年、初めてベルリンを訪れた。東ベルリンへ通じる検問所の近くに、プラカードを体に下げ、雨の日も雪の日も、往来する人々に何かを訴えている若い女性がいた。
「私の父が東側に住んでいて、私に会いたいという手紙を出したという理由だけで投獄されている。父を助けて欲しい!!」
人間の運命を切り裂く東西を分裂する壁とは…。
僕は深い関心を覚えた。
それから3年後、1989年の暮れ、あのベルリンの壁が民衆によって壊されているというニュースが世界を駆け巡った。
僕は再びベルリンへ向かった。
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僕の住んでいるすぐ近くに、同潤会代官山アパートという建物があった。70年以上も前に建てられた集合住宅だった。
この敷地に入ると、いつも僕の心は平和になった。
70余年かかって出来た自然との融合、細部まで施された洒落たデザイン。この建物を巡る全ての要素が人の心を優しく、平和にしてくれた。春には桜が咲き、若葉が萌え、秋には枯れ葉が宙を舞った。四季折々、この空間は美しくもひっそりと時間の流れに逆行するかの様にたたずんでいた。ここで出会う人々も一様に美しく心穏やかに、この場の空気を胸いっぱいに吸っていた。老朽化と再開発のため、この建物が壊されるとある日聞いた。それ以後、僕はカメラを持って毎日ここに通った。せめて写真の中にこの空気感を永遠に残しておきたかったのだ。

2年後、この建物は惜しまれつつ姿を消した。現在は高層マンションが建ち、かつてのおもかげは跡かたもない。
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1999年4月、ルクセンブルクの大公、大公妃が国賓として来日された。それに先駆け、同年1月、私は駐日ルクセンブルク大使館の依頼を受け、まだ見ぬ国ルクセンブルクに向かった。
私の撮ったルクセンブルクの写真展に大公、大公妃をお迎えすることが大使館によって計画されていたからだった。

降り立ったヨーロッパの小国は、まるで時が止まったかの様な中世の面影を残し、真冬特有の優しい光に照らし出され、箱庭の様に美しく整ったたたずまいを見せていた。神奈川県とほぼ同じ大きさである。進歩と変貌も美徳であろうが、歴史から受け継いだものを大切に守り、未来に残すのもまた美徳である。
成熟した国家によって、国民のインテリジェンスが作られ、進歩と歴史のふたつが絶妙なバランスを保っているのがことさらに印象的だった。

新宿のデパートで開催された写真展には、皇太子殿下、雅子妃殿下にエスコートされた大公、大公妃がお見えになられ、私は写真家として最高の栄誉を授かった
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中学2年生の時、友人に誘われて写真部に入った。いま思えばそれが写真家としての出発だった。その頃、おぼろげに、人の写真が撮りたいという願望はすでにあったと記憶している。出来ることなら、僕の写真で、人々をもっと優しくしたいと願っていた。それは病気を患い、将来の夢も希望もなく、むしろ孤独と絶望の中に生きていた僕の、唯一の望みだった。

あれから45年以上が過ぎ、僕はいまだに写真を続けている。1枚でも多くシャッターを切ることを最優先して生きてきた。
10代後半になり病気から立ち直った。そしてロンドンで暮らした。そうやってたどり着いた現在、何気ない日常の光景が、この上なく素敵に見え、いとおしく思える時が多くある。街を歩き、このいとおしい光景に出くわすと、何も考える間もなく、「1枚写真を撮っていいですか?」と声をかけている自分がいる。中学時代、おぼろげだった人の写真を撮りたいという願望は、いまやっと叶えられようとしている。
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2011年用のカレンダーの撮影の目的で、箱根の彫刻の森美術館と美ヶ原高原美術館を何度となく訪れた。
彫刻のカタログ写真になってはつまらないので、見ている人々と彫刻の関係を撮影する様に心がけた。都会を離れた広大な自然の中で、ここを訪れたお客さんたちの表情は一様に明るく伸び伸びとしていたのが印象的だった。
大自然と芸術から受ける力は大きく、人々の心を癒す作用が絶大にあることを実感した。
都会にも芸術作品を鑑賞する美術館は沢山あるが、それとは全く違った環境下、つまり空の下の彫刻たちは、日常から我々を解き放ち、大自然という自由な気配と芸術という人間の英知を同時に楽しませてくれる貴重な存在なのである。